作為と無作為が絡み合う現代アートの世界

むちゃくちゃ良かったので、1万年ぶりのブログ更新で紹介。

今回、現代アートチームの目[mé]がディレクションしたさいたま国際芸術祭。 何がいいって、会場全体に散らばっている作品を発見、考えながら縦横無尽に探検できること。

会場の旧市民会館おおみやは1960年代にプロフェッサーアーキテクトだった加藤渉氏によって設計された建築。前川國男先生の弘前市民会館の影響を非常に強く感じつつ、この時代のモダニズム建築の美味しいところどりをしているため、今見れば楽しいディティールに満ちている。

普段は足を踏み入れられないような屋上、渡り廊下、舞台上、舞台裏から非常階段、果ては地下の管理室まで全てを使って仕掛けられているのは、視点を変えると普段とは違うものの見方が出来る、という提案型の作品。

美術作品というよりも社会実験的な性格が強く、わたしゃこういうのにめっぽう弱い。

しかも「作為的にやっている」のか、「実は作為なくそのまま」だったのか、その輪郭は1960年代から使っている市民会館が積み重ねてきた歴史のおかげで朧げ。

摩訶不思議な空間が期間限定で出現し、作品は毎日のように姿を変えていく。これは楽しい。

この芸術祭、土曜日に行った割に正直なかなか空いていて勿体無いので、皆様ぜひ足を運んでみてください。マジで、楽しいので。

 

 

作為的すぎるけど、ぎりぎり無作為にも思える。

この感覚が絶妙。

作為的な無作為。

無作為の美。

多分無作為なんだけど、西陽と相まって作為的に美しい瞬間がいくつもあった。

 

圧巻なのは大ホール全部を使った作品。なんとライブ中も観客席横から舞台裏まで通路になっていて演奏中の演者を後ろから見れるようになっている。視点を変えるとものの見方が完全に変わるというのを力技で体感させてくれる最高of最高な作品。

 

この日はリハーサルを演者の後ろから見るという訳のわからない体験をさせてもらった。

 

作為なのか、無作為なのか。

 

見る側

 

みられる側ということでチケットブースの裏側の事務所も見れる。

 

作為的なのはわかるんだけど、どこまでが作為なのか。

日展示が変化するというポートレイト。

無作為のような作為が溢れる中で、きちんとした現代アートとの組み合わせはFit感が抜群。

作為、じゃないだろうものも無作為に置いてある。

この辺の無造作感覚がこの会場ならではだろう。

会場を後にすると、隣の公園では水筒が等間隔で並ぶ奇跡的な光景!

「え!?ここにも!?」

これはおそらく、ただの奇跡。

いや、もし作為だったとしたら・・・面白すぎる。